江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間

江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間』石井輝男 : Mine has been a life of much shame.

石井輝男監督 1969 日本 ☆☆☆☆

石井輝男と言えば一番有名なのはこれだろうか。乱歩はほとんど数編しかまともに読んでないので自分では元ネタが分からなかったが(とってつけたような「人間椅子」オマージュだけは笑ってしまったが)、ウィキによると「孤島の鬼」の要素をベースに「パノラマ島奇譚」など他作品の要素も織り交ぜたものになっているらしい。

記憶をなくしている主人公=広介はなぜか精神病院に入れられていたが脱走し、街で懐かしい子守歌を歌う少女と出会う。が、突然少女は殺され、その犯人にされてしまう。逃亡する広介だがその途上、偶然新聞で裏日本の金持ちが死んだとの記事を見かける。彼は自分に瓜二つだった。早速その場に向かって成り済ましを試みるが、色々とボロが出そうになる。しかもそうこうしている内に金持ちの妻が殺される事件が起き、その解決のため沖合の島に自分の理想郷を築いているという「父」に会うべく、広介と他数名は島に向かう。

後半、島に渡ってからはなかば土方巽及び暗黒舞踏塾の紹介動画と化す本作だが、陰惨淫靡の大家である乱歩要素をこれだけふんだんに使っても、やっぱり石井輝男の手つきはヘルシーで、陽気なカオスに収斂していくという印象。良くも悪くもシリアスになりきらない、なんだかポップな後味が尾を引くのがこの監督の不思議な持ち味であると改めて感じる。

石井輝男って、もしかして凄く自覚的に醒めている人なのかもしれない。昔の映画って製作時の当人達は大まじめにやっていて、それが今の感覚でみるとどうしても笑ってしまう(もちろん嘲笑とは違う)っていうのが多いのだけれど、石井監督はどうも分かっていながらあえて脱臼させているような雰囲気を感じる。

そしてもしもこんなものを、醒めながら自覚的に作っていたのだとしたらそれこそ本物の天才且つ狂人である。有名なラストシーン、「おかあさーん」の叫びを聞きながらそんな事を考えていた。

ちょっと余りに暗黒舞踏の印象が強すぎるので映画として評価しづらいけど、噂通り見応えのある作品で素晴らしかったのは間違いない。島で一行が乗り込む船、その舳先で仰向けになりながら天秤状の松明を回し照明?と化している金粉の女性を見出すとき、見る者は既に試されている。。そんな一作。意外とヒール履いてるのがポイントです。

ブルジョワジーの秘かな愉しみ

Book Review We Have Never Been Middle Class by Hadas Weiss | Morning Star

ルイス・ブニュエル監督 1972 フランス ☆☆☆☆

先日シンエヴァで話題の庵野秀明のドキュメンタリーを見ていたら、何故この撮影を受けたのかとの問いに、今の時代はミステリアスである事をよしとしない人達が増えたので姿をちゃんと見せた方がいいと思った、というような事を言っていた。SNSで私生活を上手に切り売りして名を売り、それがインフルエンサーなんて持てはやされる時代には、もはや楽屋裏の神秘性とかシュールな不条理劇なんてダサいかっこつけにしか見えないのかもしれない。

ブニュエル作品鑑賞は「皆殺しの天使」に次いで二作目、本作もシュルレアリスティックなコメディで、またしてもブルジョワが停滞している。

三組のブルジョワ夫妻が主人公で、彼らが色んなところで飯を食おうとするがどこでもとにかく邪魔が入り、結局食えない。あらすじと言えばそれだけ。また彼らの内には仲間内で浮気をしている者たちがいる。またなぜか皆で着いた食卓が実は大勢の観衆が待ち受ける劇場の舞台である。また怪談話で盛り上がった後突如投獄され牢屋の外の廊下を鍵束を持ってうろつくのは、看守ではなく先ほど話題にしていた幽霊だったりする。

終始何もかもが理に落ちていかないが、不思議ととっ散らかった印象はなく、見終えた後に残るのはむしろ整然とした印象。全体としては資産家階級への社会風刺になっているのは間違いないと思うが、そのような感想を抱く非資産家階級の凡庸な観客こそ、監督が本当に狙い撃ちしている対象のようにも思えるし、そもそも、全てが行き当たりばったりの適当な様な気もする。

だけどなんだっていい。何もかもが分かりやすく理に落ちていく事がよしとされる時代に、たまにはこの様な非合理性が気持ち良いし、落ち着く。

そして一見荒唐無稽な様で、だけどリアルな我々の現実、人生にどちらが近いと言えば、やっぱり今作のようなものだろうと思う。

我々は皆、訳もわからず気付いたら存在しており、食事をしたり恋愛をしたりしながら数々の意味があるのかないのかよくわからない場面を経て、やがてほとんどの場合なりゆきに任せた、それぞれの終わりを迎える。そういった実際生きることのカオスを本作の様な作品こそ、乾燥したシリアス、あるいはヒューマニティー的な湿度に一切阿ることなく、フラット且つ軽妙に内包できているのではないか、、、と思ったりもするが、とはいえそれも結局はわからない。やっぱり適当なのか?ブニュエル

全く「あちら」には転げていかないように、ギリギリの所で絶妙なバランスを保っている。場面場面はシュール過ぎて何だか恐ろしいのだけど、後から思い返すと全体としては何だか可愛い印象すらある。今回もそんな印象。

マリエンバートにも出ていたデルフィーヌ・セイリグ、綺麗だった。

 

星空

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トム・リン監督 台湾 2011 ☆☆☆☆

world's end girlfriendがサントラを担当していて、そこから知った作品。

特に「Storytelling」という曲があって、本作映像を使用したMVも作られているのだけど、これがMVとして素晴らしいだけでなく、観るだけで映画全体の内容も何となく分かるという優れもの。で、必然的に映画本体もずっと気になっていた。ただ当時は日本公開の目処がたっておらず、結局日本での公開は2018年まで待った。

裕福だが両親が喧嘩ばかりしている家庭の少女シンメイのクラスに、スケッチブックを抱えた影のある少年ユージエが転入してくる。孤独を感じていた二人はお互いに共鳴するものを見出し、交流を深めていく。やがてあるきっかけから、シンメイが祖父と以前暮らしていた山奥の家に向かって、家出同然の二人旅が始まる。

久し振りのド直球ボーイミーツガールにクラクラして若干死にたくなったけど、作品はとにかく素敵でした。まだそれほど男女が分かたれていない青い時代。同じような価値観と、心の傷を持つ美少女との出会い、そしてつかの間の逃避行。自分が少年だった頃、妹の少女漫画など盗み読みつつ秘かに憧れた世界の全てが詰まっていた。。

普通なら鼻白んでしまいそうなくらいコテコテな物語をそれでも素直に感動しつつ受け入れられたのは、撮り方や色合い、美術や衣裳(特にシンメイの衣裳や部屋の装飾は相当キュート)まで含めて映画全体を丁度良い塩梅のファンタジックな手触りで包むことにより、本作は逆説的に、現実とよく馴染んでいるように思う。実写だからと妙にリアルにしようとせず、あくまでも童話的な雰囲気を優先し、崩さないことを大事にしているというか。あと、たまに出てくるCG演出がこれまた絶妙にやり過ぎない具合で、個人的にこの手の雰囲気でCGを実写と混ぜてるものにはあんまり良いイメージが無かったけど、本作ではとても効果的だった。

そして何と言っても主演の二人。一人ひとりでも可愛いんだけど、二人でいる時のバランスが絶妙すぎて悶絶。これくらいの年頃独特の、並ぶと女の子の方が少しだけ大きいあの感じ。。眩しすぎて目も胸も潰れそうだったがなんとか耐えた。

 

久々に真っ直ぐなBMGを観たいという人には相当おすすめ。ただこれ、同年代の少年少女にはどうなんだろう。全体にノスタルジックな色合いが強いので、以外と30以上くらいの方が反応する作品かもしれない。

 


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サッドティー

サッドティー : 作品情報 - 映画.com

今泉力哉監督 2014 日本 ☆☆☆

双方の女性了承済みで二股を掛けてる新米映画監督を中心にした、実は狭い関係の中で色んな矢印が飛び交っているという恋愛群像劇。音楽はトリプルファイアー。よく出来た可愛い映画。面白かった。

ウディ・アレンとかホン・サンスに通じる落ち着いたテンポで各場面をたっぷり描いているものの、全体的な話の流れとしては割とサクサク進むため飽きさせない。また群像劇なので登場人物が多くてそれぞれの立場や関係がややこしくて、しかも殆ど無名の役者ばかりなので人物の印象が残りづらいにも関わらず、その辺りの複雑な関係図がスラスラと理解できるつくりになっていて、この辺りは脚本や編集のセンスを感じさせる。所々に出てくる笑いのセンスや塩梅なども丁度良い。

「ちゃんと好き、という事について考える」というお題目だが、お話自体は男女のいざこざやすれ違いがリアルでハードな雰囲気で描かれるわけではなく、全体的に男に甘い、フワフワとしたいくらかファンタジックな内容。なので現実的に身につまされるような感覚は少ないが、それも全体にゆったり間延びしたような本作の雰囲気とほどよくマッチしている。

この手の映画はこちらの精神状態や状況問わず、割といついかなる時でも見やすい。そういう意味で、とっても優しい映画。胃に優しい感じ。

そして青柳文子はlicaxxxによく似ている。アソビシステムの趣味の分かりやすさよ。

ある船頭の話

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オダギリ・ジョー監督 2019 日本 ☆☆☆

先日観た「宵闇真珠」がよかったのでノリで観賞。宵闇真珠で監督をしていたクリストファー・ドイルが撮影の合間主演のオダジョーに向かって「ジョーは映画を撮らないのか?撮るなら協力する」と言って本作は始まったという。ロケ地は主に新潟だったらしいけど、ドイルのカメラによって山間の何でもない岩場や川辺とそこを日々往復する孤独な船頭の姿、ゴツゴツとした岩場がとんでもなく魅力的に撮られている。ついでに衣裳はワダエミさん。

クリストファー・ドイルと言えばアジアっぽい、都会の雑然とした部分を魅力的に撮るというイメージだったけど、水面に反射する光や風にざわめく山間の木々といった自然の光も見事に彼らしく収めていた。いつも思うけど、何が違うんだろう。キラキラしているんだけどシックな落ち着きもある。監督や脚本との相性もあるんだろうけど、ドイルが撮ればいつでもこの感じになっているとも、間違いなく言える。不思議だ。

以下ネタバレ在り

で、肝心の本作脚本については、(オダジョーの役者ネットワークがフルに感じられる)豪華な出演陣に比して残念ながらやや低調。孤独な老船頭と新しく建造されつつある橋の対比を軸に、結構な長尺で色々と思わせぶりなフリをきかせている序~中盤まではドイルの画の力もあって非常に期待できたものの、それを拾っていく後半の展開はステレオタイプでよくある理におちたもので、それだけならまだしも、小屋を燃やして少女と共に逃避行にでるラストは最悪だと自分は思ってしまった。

このミニマルで閉じた世界の中で、孤独な船頭の姿、その達観も業も丁寧に描いて振りにふっているだけに、それがどんなものであっても、最後は船頭が終わりゆく自分の世界、置き去りにされつつある時代=自分自身に対してきっちり落とし前をつける所がみたかった。それがまさかあんなありがちな展開から、二人で逃げ出すように船を漕いでいく、あんな曖昧且つ消極的な場面でエンドロールなんて。

脚本の意としては、結局時代の変わり目なんてあんな感じでコソコソと、逃げ出すように変わっていくもんだという現実志向をこの寓話の最後に据える事で物語世界のバランスをとろうとしたのかもしれないけど、だとしたら端的に失敗だと思う。あんなちんけなリアリズムに最後もっていかれるくらいならもっと別方向に突き抜けて欲しかったし、ドイルのカメラに柄本明ならそれが出来た。いや出来たどころか、むしろ相応しいだろう。中盤から終盤にかけて、いつ船頭のそれが爆発するのだろうかとずっと期待していたし(無論必ずしも暴力や殺戮にいってほしかったわけでもない)、むしろそれっぽいフリも劇中には沢山あったからこそ、この肩すかしにはがっかりだった。

と、ついついラストへの文句が多くなってしまったが、それも中盤までの、穏やかで淡々とした展開の中に、っくり静かに怒りや憎悪の種が蒔かれていく感じがよかったからこそで、普通に良作だとは思う。

オダギリジョーは元々監督志望だったというだけあって、役者の人が撮った余技とはとても思えないくらいの雰囲気があった。散々書いておいてなんだけど、次もあるならまた観るだろう。

さよなら、退屈なレオニー

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セバスチャン・ピロット監督 カナダ 2018 ☆☆☆

カナダだけどケベック州が舞台なので全編フランス語。全体の間やカットの切り方もフランス映画っぽい、静けさを重視しつつ一つ一つの場面をじっくり見せていく感じ。

主人公の衣裳が柄物の古着をうまくミックスさせたインディーSSWのような感じでどの場面も非常におしゃれ。この手の映画は沢山観てきたけど、一番くらいおしゃれかも。

この手のファッションが好きな人には、絵面だけでも観る価値があると思う。

高校卒業を間近に控えた17歳のレオニーは特にやりたいこともなく、ただ口うるさい母親や大嫌いな義理の父との田舎町での退屈な生活にうんざりしている。ある日、レオニーは町のダイナーで出会った中年ギター講師のスティーブに自分と同じ雰囲気を感じ、ギターを習い始める。

以下ネタバレ在り

ゴーストワールド」や「スウィート17モンスター」やら、多感で退屈な少女の大人への通過儀礼を描いた作品は多い。本作も間違いなくそれらの系譜に連なる作品ではあるけれども、シナリオの展開は斜め上。

冒頭でレオニーの孤独感や周辺環境への嫌悪を描いた上で、初めて理解してくれる大人と出会うという中盤までの筋立ては王道だが、本作を最後まで観た誰もがラストのバスのシーンで「また乗るんかい!」と突っ込んだ筈だ。冒頭にもレオニーが偶然やってきたバスに乗って「嫌な大人達」との会食から逃げ出すシーンがあって、当然それと対になっているわけだけど、「共感できる大人」であるスティーブをも同じやり方で拒絶し、車中で一人佇むレオニーを映しながら、この映画は終わる。

あのラストをどう解釈するかによって、本作の内容は大きく異なってくると思う。

17歳のレオニーにはまだまだ許容しきれないずるさや醜さを持った嫌な大人達(唯一信頼していた実の父親への気持ちも、母親に暴力を振るっていたという義父の密告によって瓦解してしまった)。あるいは共感はできるし醜さは感じないが、その繊細さ故に社会の中で孤独者となってしまっている大人(スティーブ)。

そのどちらとも触れ合った上でレオニーが出した結論は、そのどちらでもない、第3の道への意志だった、、という風に解釈したいけど、個人的には「ゴースト・ワールド」のイーニドや、「害虫」のサチ子と同じ道行きをレオニーも辿ってしまった、そんなラストに見えた。(あれほど絶望的ではないにせよ)

それは自暴自棄に任せて自分で自分を地獄行きのバスに放り込んでしまうような、そういう道だ。

自分が読み切れていないだけかもしれないけど、それまでの展開からは意外な方向に転がったラストシーンが新鮮!というよりは、色んな意味でモヤモヤが残ってしまった、そんな作品。

実母と喧嘩し、義父の愛車をたたき壊し、実父も、スティーブをも自ら遠ざけてバスに乗ってしまった彼女は、一人でどこに行ってしまうのだろう。最後の彼女は笑っているようにも、少し泣いているようにも見えた。

ところでスティーブ、まじでギター上手すぎ。本職はミュージシャンなんだろうか。

カビリアの夜

カビリアの夜 | Untitled

フェデリコ・フェリーニ監督 1957 イタリア・フランス ☆☆☆☆

ローマ郊外で暮らす勝ち気だが真っ直ぐな心持ちの娼婦カビリアは男に騙され、金だけ奪われ川に突き落とされる。その後もひょんなことから知り合った有名俳優に思わせぶりな態度だけとられたり、何かと男に関しては運がなく、また頑なになってゆくカビリア。だがある時偶然入った見世物小屋で知り合った会計士オスカーの誠実な態度に、徐々にほだされてゆく。

最初はあほな女だなーと半ば笑いながら遠目に見ていたけど、蓮っ葉で口も悪いのになぜか下品ではないカビリアが徐々に好きになっていき、映画スターのカップルの痴話喧嘩に巻き込まれて結局朝方追い出されるコメディっぽい流れのころには相変わらず半笑いしながらも大事な友達のように思えてきて。そして終盤、オスカーにはまっていくシーンでは、もう見ているこちらとしては詐欺師にしか見えない男に徐々にはまっていくカビリアが見てられなくて全然笑えないという、久しぶりに女優にもろに恋をしてしまう映画となった。「キャリー」のシシー・スペイセク以来かもしれない。
カビリアは基本的にうるさいし、溺れているのを救助されても感謝どころか逆ギレして帰るようなタマだし、また少年漫画の主人公のように終始底抜けに明るく楽天的というわけでもないのだけど、でも何か心の底にはいつも天然の光源があるような、不思議に人を照らすものがあって憎めない。ついでに家着とか、デートの時によく来ているシャツワンピみたいのとかセーラー服とか、衣装がいつでも大変にかわいいのもずるい。

クライマックスで訪れる湖を見渡す丘からの景色はモノクロフィルムの粒子の粗い雰囲気も相まって幻のように美しく、そこから続く場面の悲劇性も含めて白昼夢とはこの事かという風情が素晴らしすぎる。そして有名なラストシーン。どんなに打ち拉がれ絶望していても、好きな音楽とダンスがあったらついつい笑顔になってしまうのよ、なんて、こんなにも全面的な世界への肯定、人生への祝福があるだろうか。カビリアは全てを失ったここにきて、しかしなお笑顔を見せたことによりもはや人を超え天使化。そんなやばいラストシーンだった。

女優がただ歩いて笑うだけでこんなでかい祈りを一発で顕現させるって、映画はやっぱりすごいなーなどと身もふたもないことを、60年も前の映画に今更思わされるというそんな一作。あの場面は本当に嬉しかった。