火の山のマリア

映画『火の山のマリア』(ネタバレ)──人の業や愛はどこに生きる人間でもだいたい同じ | 三崎町三丁目通信

ハイロ・ブスタマンテ監督 グアテマラ・フランス 2015 93分 ☆☆☆☆

当時、アカデミーの外国語映画賞に初めてノミネートされたグアテマラ映画ということで話題になっていた。その流れで日本にも入ってきたのだろう。画面にはえる顔立ちをしたヒロインの、腰まである豊かな黒髪が特に印象的。

今も古くからの因習が色濃く残る山間の農村に暮らす17歳のマリアは地主の息子との結婚が決まっているが、別の男=アメリカ行きを夢見る青年ペペの子供を身ごもってしまう。

少女が生まれ落ちた場所の伝統や因習から抜け出そうともがいてみたものの果たせず、結局今まで通りの流れに戻るがそこには以前とは違う空虚な諦念が出現していた、というような物語に自分には思えた。結構きつい。

冒頭に豚の交尾を見つめるマリアの横顔をじっくり映す場面があるが、ずっと同じ場所で同じ営為を繰り返していくだけの生に対する彼女の違和感が、この横顔一つでひしひしと伝わってくる。またマリアの村のすぐ傍には信仰の対象でもある巨大火山が聳えているが、想像もつかないその火山の向こうには何があるかと問うたとき、若き青年ペペはアメリカと答え、しかしマリアの母親は「冷たいよ」とだけ答える。母にとって火山の向こうなど存在していないも同然であり、またそれを疑問に思うこともないのだ。

しかし勿論、想像力や知識をもって今いる「世界」の外側を感じることが必ずしも幸福とイコールなわけではない。ただこの事自体もある程度、自分たちの立場や境遇を俯瞰することのできる社会に生まれた人間だからこそ知覚や納得ができることであって、閉塞した状況の中で何となく「外」もあるという概念だけを与えられ、しかし「内」に留まり続けるマリアにとって、謂わば日々の暮らしの底にうっすらと巨大な疑いを飼い続けながら生きるという、これが孤独や虚無でなくて何だろう。

ラストシーン。何事もなかったかのように再度結婚のための華やかな衣装を着せられ、顔にベールを掛けられるマリアの表情にはどうしようもなくその虚ろが貼り付いているように自分には思えた。

でもだけど、じゃあ仮にペペと一緒に駆け落ちを成功させアメリカに渡っていればハッピーエンドだったかと言えば、勿論そんな単純だとも思えない。

たまたま自分の生まれた時代や状況に疑問を抱ける聡明さゆえに、彼女が引き受けざるを得なかったもの。巨大な火山はもはや神ではなく、ただ太古から横たわる巨大な残骸に過ぎないと知ってしまった後も、彼女の祈りは続くのだろうか。