悲しみに、こんにちは

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カルラ・シモン監督 2018 スペイン ☆☆☆☆

欧州の映画祭で話題になっていた作品。監督は女性でこれが初監督作。彼女自身の体験がモデルだという。

両親を病気で失った少女フリダは叔父夫妻に引き取られ、都会から緑豊かな田舎の一軒家へと引っ越す。彼らの幼い娘アナも含めた四人での生活、その最初の夏がはじまる。

いわゆる映画的な演出はかなり薄味で、全編ドキュメンタリーぽいリアルな作り。手持ちカメラ多め。トリアーとか河瀬直美に近い感触。このような作りにしたのは予算の関係もあると思うが題材との相性は良く、むしろこのスタイルだからこそ少女の揺れる心情がとても繊細に写し取られていたと思う。

フリダはとても利発な少女だが、状況への悲しみや戸惑いが年頃相応の反発心と混ざり、劇中幾度か間接的に発露してしまう。彼女を受け入れる若き叔母夫妻も突然の状況や頑ななフリダの振る舞いに内心葛藤を抱えながらも、それでも基本的には前向きに何とかフリダを新たな家族として受け入れようとしていく。美しいカタルーニャの森とその傍に立つ叔母夫妻のお洒落一軒家を舞台に、両者が歩み寄りやがて新たな家族となるまでの淡々とした静かな記録みたいな作品。

作品をほぼ一人で引き受けているかのような主人公の少女フリダが色々凄い。基本的に全編泣きも笑いもしないのだけどどの場面でも目や口元の感じ、ふとした仕草なんかで彼女のはち切れそうな孤独や不安、怒りや悲しみが手に取る様に伝わってきて驚く。本作は演技力を云々というようなテイストの作品ではないからこそ、彼女の素の存在感にびびる。(全然映画の雰囲気は違うけど「害虫」という映画に主演していた時の宮崎あおいをちょっと思い出した)

加えて、夫妻とフリダの間に入るような形で潤滑油兼ユーモア担当でもある天使、夫妻の娘アナ(4歳くらい?)がまた最高。主人公を支える名脇役と言った体で、雰囲気やドキュメンタリーぽい撮り方からほっとくとどうしても緊張感を帯びそうになる本作の画面をうまくほぐし、時にホロッとさせ、全体に柔らかい奥行きを加えてくれている。

スペイン田舎町の美しい自然と光が、凍てついた少女の心をゆっくりと解凍していく。見終わった後、優しくて理解もある叔父叔母やその娘も勿論多大な貢献をしたと思うけど、結局何が彼女をほぐしたのかと考えるとあの森や風や光(と時間)だったのではないだろうか。そんな映画。

ところで劇中最後の方に何やらでっかい顔形?みたいなのを被った子供達が踊りまくる奇祭に皆で遊びに行くシーンがあるのだけど、ヨーロッパの田舎のちょっとした祭りの雰囲気が滅茶苦茶良かった。やっぱり踊りや祈りが当たり前に身近にある文化は羨ましいし、強いよなとも思う。

フィツカラルド

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ヴェルナー・ヘルツォーク監督 1982 西ドイツ ☆☆☆☆

あんまり期待してなかったしなんせ150分以上もある映画なので2日に分けて適当に見るかと思っていたが、面白過ぎて一気に見てしまった。全く退屈せず。

アマゾン流域の田舎町にオペラハウスを建設するのが夢である事業家フィツカラルドは、一攫千金の策として未だ誰も到達していない原生林奥地のゴム林に目を付ける。しかし、そこは川の流れや原住民の抵抗などが激しいいわく付きの場所だった。

いつも白いスーツを着て横暴なんだか誠実なんだか分からない三枚目、主人公フィツカラルドを演じているクラウス・キンスキーが上手すぎる。フィツカラルドは行動力はあるもののやることなすこと滑稽にも見える夢想家だが、その愛敬ある振る舞いから現地民や娼館の女主人マリーには滅茶苦茶に愛されている。本作はこの主人公の魅力に負うところが大きいが、クラウスの演技は、台詞は勿論ちょっとした仕草や振る舞いなんかからも主人公の人たらしを見事に表現しており、説得力がえぐい。そう言えば物語の中頃で仲間の誰かが主人公に「あんたは馬鹿だが不思議な魅力がある」みたいなことを言うシーンがあるが全くもってその通り。

そしてパッケージにもなっている船での山越えシーン。「目当てのゴム林を開拓するためには船を持ち上げて山を越えるしかない」という主人公のアイディアも狂気なら、CGもないアナログ時代にその場面を実際に撮ってやろうという監督の発想も同等にやばく、そういう意味では映画中盤に続く大がかりな工事をしながら船を引き揚げていく一連の場面はそのままこの映画のメイキングドキュメンタリーのような様相も孕みながらとにかく迫力と野心、そして達成の喜びに満ちている。実際に山を切り削っている事や、白いスーツを着た監督のもと原住民達が人足として働く描写など西洋主義的な上から目線も感じるものの最終的には、そういった倫理観や聖俗を超越するかのような獰猛な美しさに、ただただ圧倒されるばかりの名場面だった。

だいたい南米の原生林で土木工事をしているのに真っ白いスーツって、狂人か天使でしかないだろう。そんな男が過酷なアマゾンの原生林で、排他的な原住民達をも巻き込み遂には奇跡を顕現させるという壮大且つ無茶なお話を、全編アナログで全く違和感なく見せているという怪作にして大傑作。プールの後の授業のような、ラストシーンの夢見心地もとてもよい。

わたしはダニエル・ブレイク

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ケン・ローチ監督 2016 イギリス ☆☆☆☆

以下ネタバレ在り

地味な社会派映画がパルムドールをとったとの事で観てみたが、素晴らしい作品だった。ケン・ローチって名前は知りつつも初見だったが凄い。

心臓疾患により医者に仕事を止められてしまった初老のダニエルは、行政による手当を受給するべくやむなく福祉事務所へ向かう。しかしそこで待っていたのはまるでカフカの城よろしく複雑な手続きとまるで人間味のないマニュアル対応だった。憤りながらも背に腹は替えられず事務所に通うダニエルはある時、バスの遅れにより遅刻したため支援を受けられず途方に暮れるシングルマザーのケイティ、そしてその2人の子ども達と出会う。

イギリスも、いや、今は世界中こんな感じなんだろう。本作では体調不良から仕事を失う独居老人と、学歴や資格の無いシングルマザーという二者が知り合い、助け合いながらもやがてそれぞれに追い詰められていく過酷な現実が丁寧に描かれている。映画の前半はダニエルのまるで江戸っ子のような職人気質もあいまってまだコミカルに観られるが、行政の機械的な対応、回りくどく複雑な申請に付き合う事をよしとしない愚直なまでの真っすぐさが彼を支援から遠ざけていく中盤以降は観ていて結構辛い。

ケイティにまつわる描写は更に過酷だ。新しい靴を買ってやることが出来ず娘が苛められたり、売春の誘いに葛藤したり。特に中盤、ダニエルも一緒に行った食糧を無料提供してくれる慈善団体の施設で、空腹に我を失ったケイティが思わず缶詰を開けて食べてしまう場面の描写は壮絶。徐々に徐々に追い詰められ、やがて思わず一線を越えてしまう人の在り様と、また人を支援するということは物や金以上にその尊厳をいかに尊重できるかが問われるのだという難しさ、そういった一切があの短い場面にギュッと凝縮されている。

他に、最後の方での職員とダニエルの最後のやり取りも良かった。そこまでずっと機械的なマニュアル対応を押し付けてくるだけかの様に見えていた対応係が初めて自分の言葉でダニエルに語りかける場面。彼女もまたシステムに矛盾を感じつつも、とにかく現状では最善最速と思われる対応を促しているに過ぎない。

こんなにも過酷な現実を容赦なく描ききる本作だが、しかしその後味は不思議なほど晴れやか。これは多分どんな状況に陥ってもユーモアと尊厳を失う事の無い主人公ダニエルの生き様、やれる事を最後までやった人間の姿は、決して哀れには見えないのだという事を伝えてくれているからだろう。

明日は我が身のこの世界で、ダニエルのように立てるだろうか。

500ページの夢の束

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ベン・リューイン監督 アメリカ 2017 ☆☆☆

自分好みの作品に出ていることが多い妹のエルはよく見るものの、姉のダコタ主演作って意外と初めて見たような気がする。あんまり顔の似ていない姉妹だが、本作でのお姉ちゃんもまあ可愛い。GAPのカタログのような何の変哲もないアメカジ、ジーンズにカラフルなセーターといったシンプルな出で立ちなのだけどそこにロングの金髪をのっけるとこれがまあはえることはえること。ばえまくってた。

自閉症のウエンディは大のスター・トレックファンで、今はグループ・ホームで暮らしている。ある時スタートレックの脚本コンテストがある事を知った彼女は熱心に執筆しやがて書き上げるが、色々あって郵送での期限を過ぎてしまう。絶望するウェンディだが自身の思いを遂げるため、ハリウッドにあるパラマウントピクチャーズまで数百キロの旅に出ることを決意する。

あらすじからすると意外だがロード・ムービー成分は少なめで、6割くらいだろうか。旅とその達成を通した主人公ウエンディの魅力や変化は勿論大事に描かれているが映画全体としてはむしろ、妹であるウエンディを大事に思いながらもやや持て余し気味な姉や、心配のあまりウエンディの行動を制限してしまいがちなホーム付きのソーシャル・ワーカーといった周囲の人達がウエンディへの目線を改めていく様が印象に残る。そうした本人や周囲の変化がややコメディめいた物語のラインに乗せながら非常にスムーズに描かれているのがまず良い点で、さらに道中でウエンディに降り掛かる幾つかのトラブルやラッキーも、そのどれもがつとめて冷静に描写されており、ハートフルな雰囲気は常に画面に漂いつつも、どの場面も決して安っぽいご都合主義に落ち込んでしまわぬよう細心の注意が払われていて、総じて脚本や演出からは玄人ぶりが感じられる。

短いランタイムの中で物語の骨となるポイントは過不足なくきちんと描きながら、その上でスタートレックを中心とした小ネタもしっかり利かせてあって、ウェルメイドとは正にこのことといったような良作。ただ半面、結局シビアなテーマを無難に、ポップに扱う事に終始しただけのような食い足りなさも残る。

霧の中の風景

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テオ・アンゲロプロス監督 1988 ギリシャ ☆☆☆☆

 ずっと観てみたかったこの監督の作品だが、配信系の映画サービスにも近所のTSUTAYA店舗にもなく、購入を除けば、ツタヤディスカスしかレンタルの道は無いと思われる。ただディスカスでもやはり枚数があまりなく数カ月待たされた後、ようやく視聴。

アテネで暮らす12歳のヴーラと5歳の弟アレクサンドロスは厳しい実母や義父との暮らしを嫌悪し、実の父親がいると聞かされているドイツ行きを夢みている。毎日のように駅に来ては列車を眺めていた二人だったが、ある時お金も持たずについに飛び乗ってしまう。様々な人達と触れ合い散々な目にも遭いながら、二人はやがて国境へと辿り着く。

特典のインタビューで監督本人がこれはお伽噺ですと言っていたが、いるかどうかも分からない父親に会いに行くという物語の大枠もそうだし、姉弟が出会う人々やそれぞれのエピソード、また抑えた色調の静止画みたいな構図が多用されて綺麗だけどそれ以上に虚しさの募る画作りなど、確かにおとぎ話的というか、全編夢のようなふわふわとした感触に満ちている。

時代に取り残されつつある黒服の旅芸人一座や、姉弟以外の時間が止まったかのような雪景色の警察署前など、詩的で印象的な場面が多い。中でも夜の路上で今正に息絶えつつある馬の死に姉弟が立ち会っているその背後を、賑やかな結婚パーティのパレードが通過するシーンは一つの画面に単純な喜怒哀楽を超えたものが詰まっていて、生の興奮と死の無常が同居する冷たい緊張と虚無が同時に漂っていて静かに壮絶なすごいシーンだった。

俗っぽい感想だがタルコフスキーヴェンダースアキ・カウリスマキを絶妙な配合で混ぜたような感じで、純文学映画にありがちな退屈さを緩和しながら聖性も決して失っていないという絶妙なバランスの傑作。

禁じられた歌声

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アブデラマン・シサコ監督 2014 フランス・モーリタニア ☆☆☆☆

フランスではセザール賞で七冠をとり、米アカデミーでも外国語部門にノミネートされていた本作。

西アフリカはマリ共和国の古都ティンブクトゥ。そこで暮らす牛飼いの一家は慎ましくも幸福な生活を送っていた。しかしある時街をイスラム過激派が占拠し、音楽も、サッカーも、恋愛も、外出すら禁止であるという恐怖政治が始まる。

粗筋だけ書くと銃声と暴力、悲鳴が飛び交うハードな雰囲気を想像するが本作はほぼ全編に亘ってとても静かでゆっくりとした雰囲気。舞台となっている村や人々に関しても本作ではただ社会派映画の背景としてではなく、その静かな佇まい、文化の豊かさや美しさがまず画面に溢れ出しているし、そんな場所に異物として侵入してくる過激派にしても、顔を隠し武装しているもののどこか牧歌的な雰囲気を漂わせており、あからさまなヤクザ者、暴力的な悪魔とは描かれていない。むしろ、どこかユーモラスな雰囲気さえある。

中でも占拠後にある家から音楽が聞こえてくる場面と、車の運転練習をする場面の二つはそういった本作の雰囲気が端的にあらわれている。前者は、音楽を禁止している手前兵隊がその家まで取締りに行くものの、聞こえてくるのが神と予言者を讃える歌であったため戸惑ってしまう。後者は、主に英語で意思疎通している過激派のおっさんと村の青年が車の運転の練習をするのだけど、親子くらい年齢差がある二人は拙い英語でコミュニケーションをとりながら、とても楽しそうに見える。

だけどやっぱり、暴力は行使される。歌姫はムチ打たれ、カップルは埋められたのち投石され、牛を巡るトラブルから相手を殺してしまった一家の父親は一方的な裁判のもと簡単に死刑。過激派のボスも、父親を殺された娘が可哀想だと内心思っているが、もはやあとにはひけない。加害者も被害者もその場にいる全員が多かれ少なかれ疑問を抱きながら、神の名の下に処刑は続いていく。

過激派による恐怖政治を劇的な演出や煽りみたいなものなしに淡々と描くことで、穏やかな日常と地続きにある暴力の存在がかえってリアルな実体をもって浮かび上がってくる、そんな作品。そして繰り返しになるけど、舞台となっている村や地域文化の豊かさをきっちりと見せてくれている事は、本作の特に素晴らしいところだと思う。遠くの国の知らない人々に降り掛かる理不尽な暴力についてmそういった描写が丁寧になされているかどうかでこんなにも引っかかりが違うのだと、本作を観て今更学んだ。

パーティで女の子に話しかけるには

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ジョン・キャメロン・ミッチェル監督 イギリス・アメリカ 2017 ☆☆☆

原作小説は未読。ボーイミーツガールにパンクと宇宙人と食人を混ぜ込むとは何たる奇策と思っていたが、実際見てみると思ってた以上に奇作だった。エル・ファニングの着ている千鳥格子のオーバーコートかわいすぎ。衣裳だけでなく、全体に画面の非常にクールな作品。

1977年のロンドン。パンクに夢中の少年エンは女には縁が無いが、同じくパンク好きの仲間と同人誌など作って遊んでいる。ある時夜の公園で不思議な音楽が漏れ出している一軒家を訪ねてみると、そこではいかにもレトロフューチャーで安っぽいビニールタイツのような衣装に身を包んだ不思議な人々がパーティ?をしていた。エンはそこで「個性を尊重して欲しい」と叫ぶ少女ザンと出会う。

パンクとBMG(ボーイミーツガール)が主でエッセンスとしてSFを振り掛けているくらいに予想していたが、そのSF味の部分が相当濃厚で、下手すると一番印象に残るレベルなのは斜め上だった。あの衣装とパーティ、キューブリックの宇宙を脱臼させて一軒家にぶち込んだような全体的なテロテロさとでもいおうか、とにかくインチキ臭くて良い。

しかし作品のハートはやっぱりパンク、次いでにラブ。頻出するパンクの名曲達は勿論、躍動感たっぷりに撮られたライブハウスでのステージシーン、そしてそこに君臨する女王はまさかのニコール・キッドマンというキャスティングなんかも含めて、製作者のパンクへの真摯なリスペクトと愛情が随所に溢れている。大体、エル・ファニング召喚してあんな可愛いオーバー着せて、普通にパンク時代の青春ものとして撮ればそれだけでそこそこ広く一般受けする映画になるであろうに、それをわざわざこんな捻くれた原作を持ってきて脹らまして異星人だ!食人だ!ってやってるその精神こそ本作の肝であって、そこにのれるかどうかで本作への目線は大きく変わってくるだろう。普通の話はやんねーぞ、あとついでにジャンルのタグ付も困らせてやるぜザマーミロ!っていう精神。

自分は上記したような「普通の青春もの」を観たかった気持ちも正直あるけど、でもやっぱりこのスピリットを買いたい。なので本作は大いにありだけど、ただどうしても気になってしまう欠点もあって、それはザンがエンに惹かれていくような描写が薄いこと。これはザンの特殊なキャラクター性もあるので難しいところではあるのだが、やっぱりここの引きが弱いとクライマックスでの彼女の選択にいまいち切迫感やカタルシスが感じられず、結果作品全体のメリハリがやや緩くなってしまっている点は少し残念だった。

とはいえエル・ファニングにあの衣装を着せてロンドンを歩かせてくれた功績はやはりでかいし、それ以外の全体的な絵面はもちろん、筋書きや設定に関する独自の美意識まで、結局は大いに楽しんだ。非常に可愛く、たしかにパンク。そんな作品。