薔薇の名前

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ジャン=ジャック・アノー監督 フランス・イタリア・西ドイツ 1986  ☆☆☆

ウンベルト・エーコの小説をフランス人監督が映画化。一見してかなりの予算が割かれており、また中世イタリアの話なのにショーン・コネリー主演で言語も英語である事から世界中で売る前提で作りあげた大作だったのだろうけど、こんなにゴシックなダークミステリーで果たしてペイ出来たのだろうか。

人生の黄昏を迎えた老修道士アドソは、若い頃に北イタリアの山奥にある修道院で遭遇した奇妙な事件の事を回想する。それは1327年の冬の事で、彼は元異端審問官の肩書きを持つ師ウィリアムとそこにいたのであった。

話の構造や雰囲気はまんま市川崑金田一シリーズみたいな感じで、一般社会と隔絶したゴシック且つお耽美な舞台装置の中で悪魔的な殺人が起こるというもの。自分はミステリーだとかホラーだとかは知らずに見始めて、へーどうやらミステリか、、と気づき始めたところで早速登場した死体がもろに犬神家で笑った。あれは偶然なのだろうか?

舞台となる要塞のような修道院が本作の真の主人公。長大な回廊に賛美歌が響き渡る礼拝堂、隠し扉の先にある迷宮のような図書館、ゴミを排出するゲート下に群がる貧民などなど、、正にベルセルクアルビオンかゲームのダークソウルかというような堅牢で威圧的且つ重厚で迷宮な雰囲気は完璧。さらに女人禁制、黒づくめの僧達、、などときては、最早耽美な事件が起こらない方がおかしいだろう。

ところでこの寺院の外観に関しては張りぼてとはいえ実際に建造したらしく、上にも書いたけどこんなニッチな映画にも昔はお金が回ったんだなあと昔日の映画界の栄華を思う。「ポンヌフの恋人」でのパリを再現した巨大セットみたいな話も、大体同じ頃ではなかったか。

 

お話そのものやキャラクターに関しては非常に見応えのある舞台装置に比べると凡庸。せっかくならもっと抽象的な話にすればよかったのにと個人的には思うが、おそらく一般受けを意識したため避けたのだろうか。非常に半端な印象を受けるもので、あくまでも衣装や舞台を楽しむための背景やおつまみ程度にしか自分には感じられなかった。

ただそういった印象を持ってしまったのは、やっぱり主演がショーン・コネリーである事と言語が英語である事も正直大きかったと思う。これが知らない俳優でイタリア語の作品であったとしたら大分印象は違っただろう。中世イタリアの修道院から巡って、やがて自分の中にあるハリウッド映画の呪いを見出す。そんな作品だった。

ところで異端者として出てきたロン・パールマンの英語が意外と上手いので驚いていたら元々米国俳優だと知って驚いた。ロスト・チルドレンの印象が強くててっきりフランスの快優かと勘違いしていた。

ニーチェの馬

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タル・ベーラ監督 ハンガリー 2011 ☆☆☆☆

世界の突端で終わりを見つめているよう。タルコフスキーサクリファイスなんかと似た雰囲気を想像していたが、もっと野蛮でどう猛な気配が終始漂う。

四六時中強風が吹き付ける原野のど真ん中に佇む小さな家、そこで暮らす父娘と老いた馬。毎日馬車に乗り町に出かける強権的な父と家事全般をこなす娘の言葉もほとんど無い単調な日々は、ある時馬が動かなくなった時から徐々に変化を来していく。

絵画のように美しいモノクロ画面で限りなく普通なような、でも滅茶苦茶に異常なようにも見える親娘の日常。その繰り返しが淡々と描かれる。馬の世話、水くみ、娘は父親を着替えさせてジャガイモを二つ茹でる。交わす言葉もごく少ない小さな生活。これを延々見せるだけの画面が続くが構図の美しさによる力強さ、また「終わり」の予感からくる緊張感が常に画面に貼り付いており、驚くほど退屈しない。

この手の映画にしてはキリスト教的な神の影が薄いのも取っつきやすい。本作でもやはり援用はされるものの印象としては小道具の一つに過ぎず、神も含めたあらゆる既存の解釈を遠ざけた上であらためて、人間一人ひとりの体重と世界全体を天秤に掛けるような野性味溢れる眼差し、より泥臭い根源的な叫びを本作からは感じる。

特に作中に何度かある印象的な場面、風吹きすさぶ戸外に出て行く二人を背面から追いかけるショットはそのワイルドさを端的に象徴していて非常に格好良く、世界の全部とひと一人の存在が同じ重さで拮抗している有り様が映像で端的に表現されているようで、震える。画面の中での人物の大きさやスピード感が絶妙で、いつか自分もあのように歩いてみたいものだ、、などと思わされる見事な後ろ姿。バケツ持って井戸まで歩いているだけなんだけど。

「一日目」から「五日目」までの章立てになっているので複数回に分けてみる事もしやすく、タイトルからも絵面からも哲学的で難解な印象を抱きがちだけど、意外にとっつきやすい一作だと思う。ただ、とはいえ理解や共感をベースに楽しむ事はやはり難しいと思うが(共感はギリいけるかな?)、おっさんが茹でたてホヤホヤの湯気が出ているジャガイモを熱がりながら手づかみで皮むいて食べようとする指先が見たいような人や、また映画内ファッションも意外とおすすめ。この親子の衣裳、二人とも良いのだけど、特に親父のシャツやコートのサイズ感などかなりのおしゃれさんだと思う。あとは馬のデカさ。黒王号。

そして何より、日々この球状天体で暮らしながら、なお世界の果てをどこかに探し求めているような人々には必見の一作。

タル・ベーラ監督もハンガリー映画も初見だったけど、素晴らしかった。

皆殺しの天使

WOWOW:皆殺しの天使 El angel exterminador 異才 ルイス・ブニュエル ...

ルイス・ブニュエル監督 メキシコ 1962 ☆☆☆☆

異常にかっこよいタイトル(日本版でなく原題直訳)に惹かれ以前から見てみたかった不条理劇。今回ブルーレイが安くなっていたので買ったけどパッケージ裏に書いてある「ブルジョア、無限の停滞」というコピーが格好良い。またブルジョアを停滞させてんのか。本編は規模も内容も可愛らしい小品といった趣。

オペラ観劇の後、ある邸宅の客間に集った20人ばかりのブルジョア達。やがて夜も更け、誰も帰らないことにホストの夫妻は戸惑いと苛立ちを見せるが、朝が来るころ、見た目にはドアも開け放たれ何の障害も無いその部屋からなぜか誰も出て行くことが出来ないのだと悟る。水も食料も尽き始め、追い詰められた人々の理性もまた徐々に失われていく。一方その頃外部では、屋敷の中から誰も出てこない事、またなぜか誰も屋敷の敷地内に入れない事で警察まで出動、騒然としていた。

資本家や貴族社会への風刺、その他様々な比喩に満ちた現代でも通用するブラックな喜劇と捉えている感想がネットなんかには多く、自分もそういうつもりでいわば社会的な、身構えた気持ちで見始めたが、実際始まると結構可愛らしい、小さな不思議話のような味わいが強く感じられた。確かに全体に風刺的である事は間違いないし、死者も出れば諍いもあるが、この状況下に放り込まれた富裕層を皮肉って本性を炙り出してやる!というよりかはもっと広く人間社会の滑稽さ、そして誰にも普遍的な人生のままならなさを割と柔らかく描いているような気がする。最後のオチも恐ろしいながら非常に軽妙且つストレートなもので、あんまり深刻な印象はなかった。

ただあの羊達や、印象的に何度も映り込む、クローゼットの扉に描かれた聖人達。あそこだけは怪しい。本作を撮る上で監督がストレートに、深刻な気持ちで突き刺そうとしたものがあるとすればあそこかもしれないなどとは思った。

ランタイムも短めで気軽に見られる。終わった後、ストーリーテラータモリが出てきそうな親しみやすさすらあった。

死霊館

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ジェームズ・ワン監督 2013 アメリカ ☆☆☆☆

死霊館シリーズ一作目。ホラーといえば夏のものっていう感覚、海外にもあるのだろうか。

有り金はたいて購入した夢のマイホームは多くの霊が住み着く幽霊屋敷だった!次第にエスカレートしていく状況の中、被害者一家は高名な心霊研究家であるウォーレン夫妻に助けを求める。

オーソドックスな悪魔祓い系で筋書きにも演出にも斬新なものはないが、丁寧な作りで要点はきっちりと押さえてくれている良作。とにかくホラー映画に大事な「びっくりポイント」の数と質、配置のバランスがとても良く、且つ余計な引っ張り箇所もなくサクサク進行していくテンポの良さも相まってああ、分かってる人が作ったんだなあという安心感漂う出来。なお個人的に苦手な、突然大音響でドーン!みたいな野蛮な驚かしはまあ幾つかあるものの、全体的なバランスを崩すほどのものではないので許容範囲。

「実際にあった悪魔祓い譚」という美味しい素材を料理するにあたって、突出した良い点を作ろうと言うより、むしろ欠点を丁寧に潰していくかのような作り方をしているように見える本作は、丁度最近見た「ヘレディタリー」があえてホラーの定石を斜め上に裏切っていくのと対をなすかのようだったが、どちらも甲乙付けがたく面白かった。

霊能者夫妻の奥さんが綺麗な人だなーとは思っていたけど、ヴェラ・ファーミガだったことにエンドロール見るまで気づかず。「マイレージ・マイライフ」の印象しかなかったので驚く。あと被害者一家の五人姉妹たちが嫌になるほどの美少女揃いで、中でも夢遊病の四女シンディはCGのような顔をしており、この辺りにも製作陣の抜かりのなさを感じる。

ところで本作で一番びっくりしたのは最後のシーン。ウォーレン夫が自宅の一角に数多の呪具をコレクションしている(封じている?)部屋をしれっと作っているのだが、この思考回路こそが一番やばいのではと思ってしまった。事件の度に大変な思いをしているのに、そのボスキャラ達を集めた部屋が自宅にあるって、よくそんな家で眠れるな。。。「下手に処分するよりも安心だ」みたいな事言ってたけど、どう考えてもやばすぎると思う。

エルミタージュ幻想

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アレクサンドル・ソクーロフ監督 ロシア 2002 ☆☆☆☆

そのコレクションの多さと建物自体の壮麗さ、広大さでも有名なエルミタージュ美術館を舞台に、華やかなりしロマノフ王朝の軌跡を辿る幻想の旅路をワンカット一発撮り!という驚異のコンセプト。少し前にめでたくブルーレイが発売されたのでようやく鑑賞。

ある男がふと目覚めるとそこは帝政時代のエルミタージュ前だった。まるで導かれる様に入館した男はほどなく、真っ黒な衣服に身を包んだフランス外交官キュスティーヌ(実在の人物)と出会い、彼に先導される形でエルミタージュ館内を彷徨する。

これはエルミタージュ美術館の優雅な紹介であり、ロマノフ王朝の歴史を辿る旅であり、そして華やかなりし中世貴族社会へのレクイエムでもある。

原題は「ロシアン・アーク」。その言葉通り、エルミタージュを方舟として各時代の王や女王、あるいは美術館として解放されたあとの現代市民までが作中では同時に存在している。主人公はそんな広大な方舟の内部を彷徨いながら、いつしか時空の垣根を超えて色んな時代の様々な人物と出会い、また事件の目撃者となっていく。

エルミタージュの内装はもちろん、画面を流れていく数々の名だたる美術品達に、要所で聞こえてくる音楽、また登場する数多くの役者達の衣装から身のこなしまで全てが統一した美意識に貫かれた見事なもので、ボーッとそれらを鑑賞しているだけでも十分な見応えがある。そして極めつけはラストの舞踏会。西欧文明の一つの頂のような華やかさを見事に切り取った映像で、圧巻。舞台や空間全体を俯瞰的に映したものならあるかもしれないが、カメラがフロアに降りて熱気をうまく伝えているものってあまりない気がする。

しかしいつしか華やかな時間も終わり、広間の扉は開け放たれ、人々は退出していく。同じく出て行こうとする主人公に対し、ここまで案内役を務めてくれたキュスティーヌは言う「この先になにがある?私はここに残る」。また退出者の熱気でざわめく大階段では、「人生最後の舞踏会だったような気がするわ」という誰かの言葉がふと聞こえる。

彼らの言葉通り、20世紀に入るとほどなくして帝政ロシアは終焉を迎え、やがてソヴィエト連邦が始まる。

どうしても「ワンカット一発撮り」という技法的な部分がクローズアップされがちな作品だと思うけど、いざ観てみればなるほどその手法でしかありえない独特な臨場感が作品の本質とダイレクトに結びついた必然の傑作であるということが一発で理解できる。

現世の時空から外れた方舟で永遠に繰り返される舞踏会には、本作を観る者だけが迷い込むことを許される。

映画というものがある時間をとどめるものであるなら、これほどストレートな作品もないのかもしれない。

フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法

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ショーン・ベイカー監督 アメリカ 2017 ☆☆☆

思っていた以上に社会派な映画で、面白いとは言い難いものの、観るべき映画ではあった。

ディズニー・ランド近くに実在する、パステルカラーで彩られたモーテル「マジック・キングダム」には、その日暮らしの人々がそれぞれの事情を抱えて暮らしている。そこの一室に母親と2人で暮らす6歳のやんちゃ少女ムーニーの視線から見た日々の記録。

映画のほとんどはパステルカラーのキッチュな世界で少女がキャッキャと遊んでいる、たまに大人達もからかっているような景色で、いかにも貧しさを見せつけるような演出や悲壮感を煽る描写はない。ただ少女ムーニーの遊びを通して彼女らを取り巻くモーテル住人達それぞれの事情や関係が透けて見えるにつれ、そこには社会の網目からこぼれ落ち、身動きの取れなくなった人々のどん詰まりが段々と浮かび上がってくる。淡々としている分、かえってそのどうしようもなさがしみじみ伝わってくる。

その希望のなさ、負のループに囚われた毎日の出口なき感じは中盤以降さらに加速していく。「金持ち喧嘩せず」の逆というか、お互いに身動きの取れない狭いコミュニティー内で些細な事から人間関係が悪化し、昨日までの友達が今日からの敵になる「あるある」のリアルさ。

基本的に誰もが自分の生活で手一杯なモーテル住人の中、唯一他者に温かい眼差しを向ける(余裕がある)管理人のボビーすら、過酷な板挟みにはまっていくラスト付近の展開は、特にしんどい。(ボビー=ウィレム・デフォー、久々に見たけど凄く良い仕事をしていた)

世界で一番有名な楽園の周囲に広がるパステルカラーの地獄からは、楽園の虹や花火が見えている。少し歩けばすぐ届くような距離にあっても、そこには余りに大きな隔たりがある。そして6歳のムーニーにそんな事は関係ない。母ヘイリーの事が大好きだし、今日も友達と一緒にボビーをからかったりして、毎日それなりに楽しいのだ。

 

6歳の子どもの目線を通して資本主義社会の暗部を淡々と突きつけてくる内容で、見た目以上にずっしりとした作品。しばらく引きずった。

そして言うまでも無く似たような状況は今や世界中どこの国にもあるだろう。明日は我が身のこの世の中で、少なくとも、苦境にある誰かを助けなくてもよい理由として、自己責任という都合の良い言葉を安易に使うのはやめよう。そんな事を考えた。

ちなみに母親ヘイリー役の人は監督がインスタで見つけてスカウトした演技素人のデザイナーらしく、驚いた。気怠い感じ、やさぐれ感たっぷりのパンキッシュ美人っぷりが最高で、観ている間この人演技うまいなーとずっと思っていたのに。

闇のバイブル 聖少女の詩

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ヤロミール・イレシュ監督 チェコ 1969 ☆☆☆☆

噂には聞いていた幻想ゴシックロリータ映画の金字塔。評判通りの美しさと評判以上のわからなさ。特に物語はあまりに分からなかったので検索したところ丁寧に解説してくれているブログがあり一応全体像は見えたが、見えたところでそれはやっぱり白昼夢なのだった。

イタチと名乗る怪人によって暴かれる血とエロスの悪徳が、少女の無垢な瞳に映る。

初潮を迎えた美少女。厳粛な祖母と暮らす古い家。庭。書斎の壁の穴から覗き見する大人の情事。黒司祭。旅芸人一座。ソフトレズ。これだけでも暗黒派ゴシックロリータの素材としては十分だが本作ではさらに、吸血鬼。若返り。魔女裁判からの火炙りまでがぶち込まれ攪拌される。流石に吸血鬼あたりは味付け過剰ではないかと思ったものの、これだけの要素を上述したとおり脈絡のないイメージそのもののようなストーリーの上にこれでもかと盛り付けながら、ギリギリのところで一本の映画として破綻しないバランスの良さはきちんと担保されている。雰囲気重視の映画は適当に綺麗で退廃的な絵面を羅列すればそれなりに仕上がるかというと実はそこのバランスって非情に難しく、かといって確固とした物語で縛ると、その物語の質云々とは別の問題で、この夢の様にとりとめのない、音楽でいうとメロディやコードの進行感に縛られないような独特の浮遊は失われていく。監督の腕なのか偶然なのかは分からないが、このギリギリを攻めれるバランス感覚や馬鹿馬鹿しい大盛りなのにも関わらず不思議な品の良さには、東欧という地域、そこに古くから通底する美的感覚の豊かさを感じる。出てくるのは妖しい変態ばかり、なのに漲るこの本物感。全体的にはB級丸出しなのに衣装や小物の説得力だろうか。

原題は「少女ヴァレリエの不思議な一週間」みたいなタイトルで、大袈裟だなと思った邦題も、見た後はまあ付けたくなる気持ちもわかるというか、そんな作品。確かに時代や国境を越えて、ある界隈の人々にとってはずっとバイブルになりうるかもしれない。