ボーダレス 僕の船の国境線

映画「ボーダレス ぼくの船の国境線(Bedone Marz)」: monad

アミールフセイン・アシュガリ監督 イラン 2014 ☆☆☆☆

アミール・ナデリやアッバス・キアロスタミで有名なイラン映画界の懐は深い。この二人しか見たことないけど。彼の地では複雑な政治状況や検閲をくぐり抜ける為に物語を子どもを主人公に据えて寓話化する事が多い。ゆえに子ども映画の傑作が多いのだとは、本当なんだろうか。

イラン・イラク国境の川に打ち捨てられた廃船でひっそりと暮らす少年。しかしある日銃を持った同じ年頃のイラン少年兵が侵入してき、それ以来、船の中にもロープが張られ境界が敷かれる。お互いへの緊張を孕みながら、奇妙な共同生活が始まる。

とてもミニマム。特に前半はセリフも少なく、静かな映画。舞台も廃船のみで登場人物もそれぞれイラン・イラクアメリカを象徴する三人だけだが、物語の背景にある巨大な戦争のうねりが映画のあらゆる部分から感じられる。

小さな物語を丁寧に描くことでこそ、巨大なものを捉える事が出来るというお手本の様な良作。そして、影の主人公とも言える廃船の風情も素晴らしかった。

牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件

牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件 Twitter પર:  "【チケット販売開始!オールナイト上映】現在公開中『牯嶺街少年殺人事件』に加え『恐怖分子』(35mmフィルム)を一夜限りで上映!塚本晋也監督と柳下毅一郎氏によるスペシャルトーク付です!この機会にぜひ!《オンライン  ...

エドワード・ヤン監督 1991 台湾 ☆☆☆☆

以下ネタバレ有り

実際にあった台湾初の未成年による殺人事件がモチーフ。ヤン監督は以前観た「台北ストーリー」がとても良く、本作もずっと観よう観ようと思っていたが何せ4時間!というランタイムに尻込みしていた。流石に二日に分けました。

1960年代初頭の台北。中学生のシャオスー(小四)は保健室で偶然出会ったシャオミン(小明)という少女と出会い、惹かれていく。しかし不安定な時代や社会の揺らぎはじわじわと小四の家族や周辺環境を揺さぶり、最初はいくつかの小さなすれ違いだったものも段々一つの大きなうねりとなって、やがて小四を追い詰めていく。

物静かなで繊細な思春期の少年の瑞々しい恋心、青春と、一方で裏側に広がる戸惑いや劣等感、そしてすぐそばにある暴力を並行して描きながら、やがて主人公がその純真さゆえに行き場を失い追い詰められていく様が克明に描かれる。この構図は岩井俊二リリィ・シュシュと(ランタイムの長さも含めて)よく似ているが、本作はあれほど、露悪的といっていいほどに劇的且つ惨たらしい思春期の描き方はしておらず、終始抑制の効いたあくまでも上品なトーン。また、ほぼ子供達だけの世界だったリリィと違って、周辺社会の状況もたっぷり時間を割いて描いている本作の方が、中盤以降のやるせなさはよりひどい。

周囲の環境も友達も急速に変化していくなかで一人取り残されていく主人公の焦燥、切実さがよりリアルなものとして、ヒシヒシと伝わってくる。

ブラスバンドの練習が遠くで鳴っている放課後の保健室。風がカーテンを静かに膨らませる中で、見つめ合う少年と少女。そして二人が立ち去った後の、もう誰もいない室内。全ての景色が来たるべき破滅の予感を孕むが故により透明感を増しているのは、何とも皮肉な事である。

ただあえて言えば、あれだけ丁寧に時間を掛けて描いていた周辺の状況や人々が、後半主人公の心に影を落とし影響していく様が、あまりスムーズに描けていないような気はしてしまった。監督は明らかに当時の台湾の全ての状況、時代や政治も含めた全てがあの殺人へと彼を導いていったのだという事を意図して、これだけのランタイムをかけていわば「そこに至るまで」を丁寧に描いているが、見終えた後思うのは、自分には彼はやっぱりもっと普遍的な、何だろう、あえていえば「少年の事情」みたいな原理に、結局動かされているように感じた。

つまり、本作の舞台を例えば現代日本や、昔日のアメリカ、その他の地域や時代に移したとしても、結構成立してしまうような気がしてしまうのだ。それとついでに主人公の後半の変化が結構急に感じるのも相まって、これだけ丁寧に繊細にそれまでを積み上げている作品だけに、その辺りの変化や移行が少し雑に見えてしまったことは残念。その辺りがもっと滑らかであれば、個人的にはよりベストな作品になっていただろう。

 

画面は終始美しい。特にベージュや土色が多い中で緑が映えている場面や、それらと対をなす、夜の暗闇が質量を持っているかのような場面は素晴らしい。そしてその上でエドワード・ヤンの映像はいつもギリギリでファンタジーまで行ききってしまわない、生活感というか、地に足の着いた所でとどまっているもので、その辺のバランスの絶妙さがまたこの監督の凄いところ。映像は綺麗だが、「綺麗事」まではいかない感じの素晴らしさ。

噂に違わぬ傑作。特にハル・ハートリーカウリスマキ作品が好きな人には絶対にお勧めだが、ただ後味は重い。

シン・エヴァンゲリオン劇場版

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庵野秀明監督 2021 日本 ☆☆☆☆☆

以下ネタバレ有り

結局前作のQから 10年?近く待たされたシンエヴァをようやく鑑賞。噂には聞いていたが、本当に終わった。感無量。

不満も勿論あるけれども、それ以上に庵野秀明の覚悟と決意を全編に感じて、うたれてしまった。それは新劇版のみならず、最初のTV版、旧劇場版まで含め、この物語に取り込まれ、取り込み、何やかやありつつずっと心のどこかにエヴァを置いたまま生きてきた全てのチルドレンを、今度こそ「青い海」へと連れて行くぞ!という強い意志だ。

抽象的に過ぎたオリジナルTVシリーズの終盤は人気作となったからこそ多くの批判を受けた。また監督もぎりぎりの製作環境の中でやり残した部分も多分にあったのだろう、その後の旧劇場版二作はTVシリーズ全般に対する補足補完と、特に最後の二話を再構成し物語を閉じるものとなる筈だった。しかし蓋を開けてみれば結果的にまたしても非常に詩的な内容となった旧劇は、エヴァンゲリオンという物語の終結どころか、むしろ閉じた宇宙での連環を促進しつつ空中分解していくようなものであった。ただその閉塞的且つ個人的な終劇はむしろエヴァに相応しいものだと当時自分は思ったし、巨大な綾波が破滅=新生の大天使と化して地球全体を再構築していく様は禍々しくも美しく、何より結局補完による液状化を拒否し、個別の存在に戻っていく事を選んだら選んだでアスカに「気持ち悪い」と言われてしまうシンジ君の絶望まで含めて、そうやって人は生きるしかないのだという事を綺麗事や常套句なしで徹底的に描いた、とても好きな作品だ。

ただ、その閉塞した終わり方ゆえに旧世紀版は一群の巨大な詩となり、そして、詩であるが故にエヴァは終われなかった(物語には終わりがあるが、詩には終わりはない)。

それから十年。新劇場版としてもう一度新しい連環が描かれると発表された時の庵野秀明による印象的な所信表明には、すでに今回のシン・エヴァにまでつながる強い意志が見て取れる。あれを読むと、旧エヴァが多くの人の心の中で終わることを許されない存在と化してしまったのは原作者である監督の中でも同じだったのだろう。だからこそ十年の時を経て、エヴァシリーズは再起動される必要があった。

もう一度エヴァに乗る決意。今度こそ全てにカタをつけ、終わらせるために。

かつて自らが生み出したエヴァというインパクトの落とし前をつけようとする監督の姿は旧世紀版以上に、プラグの中でもがき続けるシンジ君と重なって見えた。

 

今回もネット上には色んな考察や推測が溢れていてそれはそれで魅力的だが、僕自身はもうさほど関心を持っていない。この最後のエヴァンゲリオンに込められた細やかなファンサービス、感謝、そして勇気をもって新しく踏み出そうという決別への意志は作品の至る所から十全に伝わったし、自分にはそれで充分だと感じるからだ。

長い旅路の果てに辿り着いた、エヴァのない世界。強靱な意志をもって閉じた連環の外に飛び出した先に彼らが見出したものは、監督の故郷でもある山口県宇部市の、どちらかというとうらぶれた感じのある、現実の駅前の景色だった。あの実写の景色をあんまり綺麗に撮ってないのがまた非常に良かった。

最初のTVシリーズ放映時、僕は中学生で、ビデオ一本に二話ずつしか入ってないのせこいなあと思いながらせっせと地元のツタヤに通っていた。あれから25年。シンジもアスカもレイも皆ようやくエヴァを降り、年をとって、行ってしまった。エヴァという作品に自分が期待していた所としてはちょっと綺麗に完結しすぎではないかとの思いも鑑賞直後はよぎったが、時間が経つにつれ、やっぱりあれで良かったのだと思う。

決断には責任が伴う。

選ばれなかった全ての可能性への暖かい目配せを忘れる事なく、しかしこれしかないという唯一の終わりを選びきった見事な幕引きだった。

全ての子供達へ。特に旧世紀の、かつての子供達へ。今度こそ本当におめでとう。

そしてありがとう、すべてのエヴァンゲリオン

ミッドサマー

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アリ・アスター監督 スウェーデン 2019 ☆☆☆☆

以下ネタバレ有り

以前「ヘレディタリー」が非常に面白かったアリ監督は、本作「ミッドサマー」でいよいよその評価を固めつつある。本作は各所で非常に話題になっていた。

妹と両親を無理心中で失った女子大生ダニーはそのトラウマを忘れたい事もあって彼氏達とスウェーデン旅行に出かけるが、結果辿り着いた山奥の村は非常にヤバい場所だった。

前作でも耽美的な志向を感じる静かで綺麗な画面が印象的だったが、山奥の広大なスペースで好き放題に村を作っている本作ではその辺りよりパワーアップしている。夜が訪れない村に色とりどりの花が咲き、乙女達が舞い踊るその様は全く可愛らしい童話世界そのもの。そしてそれだけに中盤以降唐突に登場する暴力や性的な描写の破壊力が凄い。それも何が凄いって、最初は強烈な違和感として登場するそれらが、話が進んで村の特殊性が露わになるにつれ、段々そのような文化として馴染んで見えてくること。そしてこれは正に主人公ダニーの心情と同じで、彼女に感情移入して観ている観客ほど、どんどん違和感がなくなってくる。恐ろしい演出だと思う。

ヘレディタリー同様、今作でも「家族」が重要な裏テーマとして物語に埋め込まれており、特にダニーの目線で見れば本作は、映画冒頭で実の家族という共同体を失い途方に暮れていた彼女が新たな(胡散臭い)「家族」を見出すという構造になっている。

この二作からはどちらも、「家族」という概念への強烈な不信感や違和感が漂う。本作や前作を「変わった作りのホラー」という以上に評価している人たちというのは、多かれ少なかれそこに共鳴しているのではないだろうか。自分もその一人だ。

ホラーとしてのパンチは前作の方が上だが、「訪れた秘境はヤバい場所だった」系というスタンダードの皮をかぶりながら徐々に異様な構造が明らかになるという、前作同様凝った作りの秀作。そして赤毛の村娘。美しすぎた。

きみの鳥はうたえる

きみの鳥はうたえる : 作品情報 - 映画.com

三宅唱監督 2018 日本 ☆☆☆☆

佐藤泰志の原作小説は未読。終わってから「playback」の三宅唱監督だったと気付く。

函館の夏。書店でバイトしながら友達の静雄と適当に暮らしている「僕」は、ある日大して面識もなかったバイト先の佐知子に誘われ、急速に親しくなる。すぐに静雄も交えた3人で毎晩のように遊ぶようになるが、純朴な三角関係はやがて少しずつ崩れていく。

函館の夏の夜、遊ぶ若者達の清潔感あふれる空虚さが綺麗に写し取られていて美しい。男2人も良いが、特にヒロインの石橋静河という女優さんがきれいで雰囲気もあって良いなと思っていたら、石橋凌の娘だった。確かに似ている、、、

何かがあるような感じでいつも余裕に振る舞いつつ、実は一番何にもない主人公「僕」が、初めて「余裕」の仮面を脱ぎ捨てるまでのお話。そして主役三人の関係性を物語の軸にしながら、その周囲の人物も丁寧に描かれ、映画はやがてそれらの状況全体から、人生の中でもある特別な季節の美しさと、その終わりの予感を浮き彫りにしていく。

誰もが何者でもないからこそ、自他の線引きすら曖昧な関係の中溶けあうように一緒にいられる時間と、その終わり。一緒にただ酒飲んだり飯食ったりクラブで踊ってる時間のあの虚しさと清潔さと、それでも結局拭いきれない寂しさの感触が懐かしく、愛しい。ブルーがかった静かで美しい画面も含めて、全てが青春時代の刹那的な時間、関係をうまく表象していてとても良い。

無造作に羽織った古着のネルシャツの裾を引っ張り「みてみて、昨日タバコで穴開けちゃった」と笑う彼女のまぶしさ。身近にいて気さくに話しながら、だけどどこまでも手の届かないあの感じ!を、久し振りに食らって胸が苦しい。そんな作品。

自分が役者だったら、若手の内にこんなのに一回はでておきたいだろうなー。そして若者って金持ってない方がやっぱり美しいよなーって偏見をまた強固にした。

 

やさぐれ姐御伝 総括リンチ

やさぐれ姐御伝 総括リンチ | Tumblr

石井輝男監督 日本 1973 ☆☆☆☆

賭場をさすらう女流侠客という設定や派手な殺陣から始まる導入などは以前見た緋牡丹博徒シリーズと共通するところが多いが、こっちは速攻で殺陣中に全裸。

昔世話になった親分の組にしばらく草鞋を脱ぐこととなった主人公、猪鹿お蝶。ただその親分は既に故人となっており、跡目を継いでいる現組長は何だかきな臭い。薬物商売に手を出しており、しかも行き場のない女達を薬漬けにして運び屋として利用しているようだ。そんな卑怯な野郎どもと着流しで戦うお蝶。しかし戦っているとどうしても、段々着物は脱げてくるのだった。

冒頭から早速噂通りのエロ加減とストーリーのぶっ飛びだが、ただグロに関してはそれほどでもなく、またお話も演出も陰湿、陰惨な感じはないので全体的には非常にヘルシーな印象。おっぱいも全編にわたって余りに当たり前に存在しすぎていて、特に名物である最後の大乱闘ではもうそこら中おっぱいだらけでおっぱいのゲシュタルト崩壊こそ起こすものの、淫靡な意味でのエロさはほぼない。だれかが本作について「タランティーノは見たのだろうか?泣いて喜ぶはず」と書いていたが、非常に納得。ああいう感じのヘルシーなB級感。こっちの方が大分先だけど。

冒頭殺陣シーンの、主人公の紅の和傘と取り囲む侠客達を真上から見下ろすショットからしてすでに非常に印象的だが、要所要所ではっとするほど鮮烈な感覚の絵面が不意に飛び込んでくる事も多く、特に色彩はかなり力がある場面が多い。ぶっ飛んだお話の印象が強すぎて細部はサラッと流してしまいがちだが、絵作りは時にかなり繊細な作品だと思う。

とにかく生理的な快楽が一番で整合性は気持ちの良いくらい二の次、こうすればエロいし退廃的だし最高!という奔放な衝動を遠慮無く解き放ちまくっている感じの爽快さと、それを衒いも無くやりきる突き抜けが最高な一本。倫理的に許されない表現があるという実際的な問題を別にしても、現代ではもう映画に限らず、あまりこういう野放図は拝めないだろう。

主演を努める池玲子の豊満な肉体もさすがにこれだけのおっぱい達を脇に主演をつとめるだけあって非常に素晴らしく、およそほとんどの男達を紳士に変えるに充分だろう。もしかしたら女さえ。そんな作品。

希望のかなた

『希望のかなた』(C)SPUTNIK OY, 2017アキ・カウリスマキ監督 フィンランド 2017 ☆☆☆☆

のんびりした独特のリズムと固定カメラ視点が生み出すユーモアと情感が大好きな監督だけど、最近の作品で彼がテーマにしているのは難民との事で、正直敬遠していた。しかしいざ見てみると、やっぱりアキはあくまでもアキのまま、しっかりと真正面から難民、人間と向き合っていた。なにより単純にいつもどおりに面白くて安心した。いやーこんな繊細なテーマを真正面から扱いながら全体としてはいつもどおりのアキ・カウリスマキってすごい。ちょっとなめてたごめんなさい。

シリアのアレッポで修理工をしていたカーリドは空爆で家族を失い、紆余曲折をへてヘルシンキに辿り着くが、その過程で唯一の生き残りである妹とはぐれてしまっていた。一刻も早く妹の捜索をしたいが、難民としての自身の足場もなかなかままならない。一方、仕事にも妻にも嫌気が差し、半ば自棄になりながら挑んだ闇ポーカーで大金を手にした老人ヴィクストロムはその金で小さなレストランを買取り、三人の従業員とともに傾きかけている店をなんとか軌道に乗せようと悪戦苦闘を始める。

ある時、店のゴミ捨て場で寝ているカーリドと出会ったヴィクストロムは事情を聞き、彼を雇い入れることにする。

二人の主人公ヴィクストロムとカーリド。妻と仕事、それまでの人生に嫌気が差し家を出て突如レストランオーナーとなるヴィクストロムの物語はいつものカウリスマキ節だが、もう一人のカーリドについては、難民申請時に語られる彼の過去は余りにも直接的且つ理不尽な死と暴力に満ちていて、重い。ここまで見ていた時点ではいくらなんでもこの重さをいつもの監督の節回しで回収できるのか不安だったが、実際、特に工夫もされていないのに驚くほど自然に収まっていて、みていて驚くばかりだった。

そう。あれほどの過去を抱えた難民の青年も、味付けというには存在感も尺も長すぎのブルース演奏も、思いつきでの寿司レストラン転向も、革ジャンのネオナチ以外は皆カリードに都合良く理由無くいいひとなことも、総てが最終的にはいつもの監督の節に自然に収まっていく。あんなに出会う人がたまたま良い奴ばかりなんて、普通の映画だったらご都合主義がくさすぎてたまらないところだろうに、なぜかカウリスマキ映画だとスルリといけてしまう。そもそもこの監督の映画では人間達は揃いも揃ってみな口数も表情も乏しく、喜びも悲嘆も皆静かに淡々と受け止めるばかりである。なのになぜあんなにもマネキンにならないんだろう。ついでに撮り方も固定カメラが多いので絵面も「お芝居」っぽく見えやすい作風だとおもう。なのに人物がみんな書き割りでない、ちゃんとそれぞれの人生を生きている血の通った人間に見える。本当に何度見ても謎である。

傷ついた者たちがまさにその傷跡によって、なお他者に寛容であろうとする。そんなおとぎ話などとても信じられない、、、というかつて傷ついた者達。そんな人達こそ全員アキ・カウリスマキの映画を観るべきだろう。