ありがとう、トニ・エルドマン

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マーレン・アーデ監督 2017 ドイツ ☆☆☆☆

日本のチラシや広告だと直球の家族もの、親子の和解の先に感動があるというような紹介をされていて自分もそのつもりで見たけど、確かにその要素はあるものの、全体としては全く違った姿を持つ変わった作品。とはいえ結局はしっかり感動してしまった。

ランタイムは160分もあり全体的に間延びしまくっていてかったるい、でもなぜかそのだるさに段々嵌っていくような不思議な脱臼的魅力、またそれと裏腹な切実さが所々に光る。あえて言えばアキ・カウリスマキとかウディ・アレンに近いリズム感、ユーモアの雰囲気だろうか。

コンサル企業に勤めるキャリアウーマンのイネスは、今はルーマニアブカレストで忙しく働いている。一方イネスの父親で悪ふざけが大好きのヴィンフリートは既に引退して暇を持て余しており、愛犬の死をきっかけに突然ブカレストの娘の元を訪問する。戸惑うイネスだったが、何とかやりくりして数日を一緒に過ごす。そしてようやく帰ってくれたはずのヴィンフリートは別れたはずのその夜、ヅラを被ったトニ・エルドマンとして再び彼女の前に姿を現すのだった。

仕事一筋の日々に充実しつつも息を詰まらせている娘と、それに気付いて娘をどうにか慰めてやりたいと思う不器用な父親はしかしどう仕様もなく擦れ違う、という筋だけ見ればありがちな話だが本作がいいのはいかにもお涙頂戴なカタルシスに落ち込まず、ヴィンフリートにしてもイネスにしてもそんなに大きな変化はなく、また解決もしないまま淡々と終わるくせに、にも関わらずとても感動する。

イネスは非常に有能で傍から見れば順風満帆なキャリアを歩んでいるように見えるし、また本人にもその自負はあるのだろうが、内心孤独と虚しさに苛まれており、何度かそれが溢れ出すシーンがある。全体的に淡々としている作品だけに不意に訪れるその瞬間の説得力が異常に高く、大仰な音楽も演出もないが、「こんなはずじゃなかった」という彼女の悲哀が役者の演技の巧さも相俟って差し込むように伝わってくる。

中でも、会社のチームの士気を上げるために自らの家で企画したパーティの準備中に着がえようとしたドレスが半端なところで脱げず、そんな時に折り悪く来客を知らせるチャイムが鳴り、半裸でジタバタとひとり焦っている自分の姿に思わず一瞬両手で顔を覆ってしまう場面は本当に痛々しくて壮絶。他人から見れば一人でドレスをうまく脱げないというなんて事ない失敗だけど、本人からすれば生活の中で日々感じている虚しさや孤独、総合的なやるせなさみたいなものがそのなんて事ない失敗=小さな亀裂から一気に溢れ出してしまう様がとても生々しく演出されていて、あまりに印象的で辛い辛いと思いながら何度も巻き戻して見てしまった。

だけどその直後の彼女の開き直りの潔さよ!直前の顔を覆うシーンが本当に惨めな感じだからこそ、この直後の開き直りは無茶苦茶ユーモラスで、そして何よりイネスの芯の強さが伝わって清々しい。しかも彼女のそういう所、やっぱりイネスはトニ・エルドマンの娘なのだなあという感じの暖かさが素晴らしく、またホッとする。

綺麗事というか、ありがちな美談に回収されない生々しさを伴った親子の絆がユーモアの膜に包まれつつ丁寧に繊細に、暖かく表現されていて、鑑賞直後よりも数日後の今の方がどんどん好きになってきている、そんな作品。傑作。

最初はしかめ面でやせぎすの中年女としか思えなかったイネスが見終える頃には無茶苦茶キュートに見えて、すっかり好きになってしまった。サンドラ・フラーという女優さん、素晴らしかった。