エルミタージュ幻想

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アレクサンドル・ソクーロフ監督 ロシア 2002 ☆☆☆☆

そのコレクションの多さと建物自体の壮麗さ、広大さでも有名なエルミタージュ美術館を舞台に、華やかなりしロマノフ王朝の軌跡を辿る幻想の旅路をワンカット一発撮り!という驚異のコンセプト。少し前にめでたくブルーレイが発売されたのでようやく鑑賞。

ある男がふと目覚めるとそこは帝政時代のエルミタージュ前だった。まるで導かれる様に入館した男はほどなく、真っ黒な衣服に身を包んだフランス外交官キュスティーヌ(実在の人物)と出会い、彼に先導される形でエルミタージュ館内を彷徨する。

これはエルミタージュ美術館の優雅な紹介であり、ロマノフ王朝の歴史を辿る旅であり、そして華やかなりし中世貴族社会へのレクイエムでもある。

原題は「ロシアン・アーク」。その言葉通り、エルミタージュを方舟として各時代の王や女王、あるいは美術館として解放されたあとの現代市民までが作中では同時に存在している。主人公はそんな広大な方舟の内部を彷徨いながら、いつしか時空の垣根を超えて色んな時代の様々な人物と出会い、また事件の目撃者となっていく。

エルミタージュの内装はもちろん、画面を流れていく数々の名だたる美術品達に、要所で聞こえてくる音楽、また登場する数多くの役者達の衣装から身のこなしまで全てが統一した美意識に貫かれた見事なもので、ボーッとそれらを鑑賞しているだけでも十分な見応えがある。そして極めつけはラストの舞踏会。西欧文明の一つの頂のような華やかさを見事に切り取った映像で、圧巻。舞台や空間全体を俯瞰的に映したものならあるかもしれないが、カメラがフロアに降りて熱気をうまく伝えているものってあまりない気がする。

しかしいつしか華やかな時間も終わり、広間の扉は開け放たれ、人々は退出していく。同じく出て行こうとする主人公に対し、ここまで案内役を務めてくれたキュスティーヌは言う「この先になにがある?私はここに残る」。また退出者の熱気でざわめく大階段では、「人生最後の舞踏会だったような気がするわ」という誰かの言葉がふと聞こえる。

彼らの言葉通り、20世紀に入るとほどなくして帝政ロシアは終焉を迎え、やがてソヴィエト連邦が始まる。

どうしても「ワンカット一発撮り」という技法的な部分がクローズアップされがちな作品だと思うけど、いざ観てみればなるほどその手法でしかありえない独特な臨場感が作品の本質とダイレクトに結びついた必然の傑作であるということが一発で理解できる。

現世の時空から外れた方舟で永遠に繰り返される舞踏会には、本作を観る者だけが迷い込むことを許される。

映画というものがある時間をとどめるものであるなら、これほどストレートな作品もないのかもしれない。

フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法

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ショーン・ベイカー監督 アメリカ 2017 ☆☆☆

思っていた以上に社会派な映画で、面白いとは言い難いものの、観るべき映画ではあった。

ディズニー・ランド近くに実在する、パステルカラーで彩られたモーテル「マジック・キングダム」には、その日暮らしの人々がそれぞれの事情を抱えて暮らしている。そこの一室に母親と2人で暮らす6歳のやんちゃ少女ムーニーの視線から見た日々の記録。

映画のほとんどはパステルカラーのキッチュな世界で少女がキャッキャと遊んでいる、たまに大人達もからかっているような景色で、いかにも貧しさを見せつけるような演出や悲壮感を煽る描写はない。ただ少女ムーニーの遊びを通して彼女らを取り巻くモーテル住人達それぞれの事情や関係が透けて見えるにつれ、そこには社会の網目からこぼれ落ち、身動きの取れなくなった人々のどん詰まりが段々と浮かび上がってくる。淡々としている分、かえってそのどうしようもなさがしみじみ伝わってくる。

その希望のなさ、負のループに囚われた毎日の出口なき感じは中盤以降さらに加速していく。「金持ち喧嘩せず」の逆というか、お互いに身動きの取れない狭いコミュニティー内で些細な事から人間関係が悪化し、昨日までの友達が今日からの敵になる「あるある」のリアルさ。

基本的に誰もが自分の生活で手一杯なモーテル住人の中、唯一他者に温かい眼差しを向ける(余裕がある)管理人のボビーすら、過酷な板挟みにはまっていくラスト付近の展開は、特にしんどい。(ボビー=ウィレム・デフォー、久々に見たけど凄く良い仕事をしていた)

世界で一番有名な楽園の周囲に広がるパステルカラーの地獄からは、楽園の虹や花火が見えている。少し歩けばすぐ届くような距離にあっても、そこには余りに大きな隔たりがある。そして6歳のムーニーにそんな事は関係ない。母ヘイリーの事が大好きだし、今日も友達と一緒にボビーをからかったりして、毎日それなりに楽しいのだ。

 

6歳の子どもの目線を通して資本主義社会の暗部を淡々と突きつけてくる内容で、見た目以上にずっしりとした作品。しばらく引きずった。

そして言うまでも無く似たような状況は今や世界中どこの国にもあるだろう。明日は我が身のこの世の中で、少なくとも、苦境にある誰かを助けなくてもよい理由として、自己責任という都合の良い言葉を安易に使うのはやめよう。そんな事を考えた。

ちなみに母親ヘイリー役の人は監督がインスタで見つけてスカウトした演技素人のデザイナーらしく、驚いた。気怠い感じ、やさぐれ感たっぷりのパンキッシュ美人っぷりが最高で、観ている間この人演技うまいなーとずっと思っていたのに。

闇のバイブル 聖少女の詩

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ヤロミール・イレシュ監督 チェコ 1969 ☆☆☆☆

噂には聞いていた幻想ゴシックロリータ映画の金字塔。評判通りの美しさと評判以上のわからなさ。特に物語はあまりに分からなかったので検索したところ丁寧に解説してくれているブログがあり一応全体像は見えたが、見えたところでそれはやっぱり白昼夢なのだった。

イタチと名乗る怪人によって暴かれる血とエロスの悪徳が、少女の無垢な瞳に映る。

初潮を迎えた美少女。厳粛な祖母と暮らす古い家。庭。書斎の壁の穴から覗き見する大人の情事。黒司祭。旅芸人一座。ソフトレズ。これだけでも暗黒派ゴシックロリータの素材としては十分だが本作ではさらに、吸血鬼。若返り。魔女裁判からの火炙りまでがぶち込まれ攪拌される。流石に吸血鬼あたりは味付け過剰ではないかと思ったものの、これだけの要素を上述したとおり脈絡のないイメージそのもののようなストーリーの上にこれでもかと盛り付けながら、ギリギリのところで一本の映画として破綻しないバランスの良さはきちんと担保されている。雰囲気重視の映画は適当に綺麗で退廃的な絵面を羅列すればそれなりに仕上がるかというと実はそこのバランスって非情に難しく、かといって確固とした物語で縛ると、その物語の質云々とは別の問題で、この夢の様にとりとめのない、音楽でいうとメロディやコードの進行感に縛られないような独特の浮遊は失われていく。監督の腕なのか偶然なのかは分からないが、このギリギリを攻めれるバランス感覚や馬鹿馬鹿しい大盛りなのにも関わらず不思議な品の良さには、東欧という地域、そこに古くから通底する美的感覚の豊かさを感じる。出てくるのは妖しい変態ばかり、なのに漲るこの本物感。全体的にはB級丸出しなのに衣装や小物の説得力だろうか。

原題は「少女ヴァレリエの不思議な一週間」みたいなタイトルで、大袈裟だなと思った邦題も、見た後はまあ付けたくなる気持ちもわかるというか、そんな作品。確かに時代や国境を越えて、ある界隈の人々にとってはずっとバイブルになりうるかもしれない。

スウィート17モンスター

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ケリー・フレモン・クレイグ監督 アメリカ 2016 ☆☆☆☆

映画のタイトルや雰囲気から予想した内容より斜め上の作品だったが、とても面白かった。主人公のネイディーンがとにかく可愛く、そしてちょっと切ない。ティーンの主人公に共感しながら映画を観るって楽しみ方が大分久し振りにできて楽しかった。

小さい頃から家族や周囲の友達と馴染めず、いつも孤立していたネイディーン。唯一の理解者だった父親を病気で亡くして以降は、高校生の今に至るまで親友クリスタといる時だけが楽しみ。だがあるきっかけからクリスタと、人気者でリア充タイプの兄が付き合うことになりネイディーンは混乱する。

「こじらせた少女」の顚末を描くものって沢山あると思うけど、中でもこの映画が素晴らしいのは主人公だけでなく周辺人物も無理なく魅力的なこと。マッチョな体と爽やかな笑顔で人気者の兄貴も、情緒不安定でデートアプリに夢中な母親も、兄貴とくっつく親友のクリスタも皆それぞれの立場からネイディーンをちゃんと愛しているが、ただ各人それぞれに色々と大変なので彼女に構いきれておらず、そんな彼らの振る舞いや仕方なさが本作は非常にリアル。荒ぶるネイディーンに対して劇的に愛情を示す事もなければ過剰に突き放すようなご都合展開もなく、でも心情やそれぞれの事情は痛いほど伝わってくるというお手本のような脚本。

中でもウディ・ハレルソン演じる学校の先生が良い。ティーンであるネイディーンから見れば彼はいつも教室でひとりでいる安月給の冴えないハゲの中年で、あんまり生徒を大事にしているような感じもなく、むしろドライで興味なさそうなのが却ってネイディーンにとっては気楽なグチ相手という関係。だけど中盤ある事情で初めて彼の自宅を訪れた時、それまではおそらく一ミリも想像した事のなかった彼の私生活の一端にネイディーンは触れる事になる。ここの一連がすごく良い。

当たり前だけど自分の知識や想像の外で、他人には他人の抱える色んな事情や葛藤があり、自分だけが特別な存在、まして世界に一人だけの被害者ではないのだという事。そしてそれを実はとっく分かってはいた事。思春期の終わりを静かに受け入れていく彼女の変化が如実に伝わってくる良いシーンだった。

想像力豊かな少女だからこその過剰な自意識、恐怖や幼い無知から来る他者への軽蔑がやわらいだその先でやっと自分も許せるようになって、でもそうすると同時に何かが失われていくような寂しい気配もやっぱりあって。そうやっていつの間にか大人になっていく事の安心と寂しさが上手に、暖かく描かれている作品だった。

ところで、同世代と趣味が合わず古いモノが好きで、唯一の親友さえ自分の知らぬところでいつの間にか社会に適応していくようで、気づけば自分だけが取り残されていく少女の物語って、かの名作「ゴースト・ワールド」と同じ構図だな。だけどラストの展開は対照的で、丁度陰陽のような感じがした。

バジュランギおじさんと、小さな迷子

f:id:wanihiko:20190814130912j:plainカビール・カーン監督 インド 2015 ☆☆☆☆

バーフバリ以来のインド映画だがとにかくヒロインの少女が可愛すぎるのと、主人公バジュランギおじさんことパワン登場シーンのダンス、力はいりすぎ。

インド映画ってなんか尺長めの物が多いのは、やっぱり思いついたアイディアを基本全部突っ込んでいるからなのか、それとも映画とか演劇とか基本三時間くらいはあるものっていう伝統やお国柄があったりするのだろうか。いずれにせよ洗練されているとは言い難いがその冗長さ、しつこさと濃度がまたインド映画の魅力でもある。というわけで今作も三時間近い長尺で二日に分けて見ようかと思っていたが見始めると止まらず、結局一息で鑑賞。

生まれ付き言葉を発する事のできないパキスタンの少女シャーヒダーは、母と共に祈願旅行に出かけた先のインドで一人迷子になってしまい、さ迷ううちにインド人青年パワンと出会う。その後いろいろあって、自らの手で少女をパキスタンの親元まで送り届ける決意をするパワンだったが、インドとパキスタンは政治的にも緊張関係にあり、前途多難な旅の幕開けであった。

どの地域でも基本的に隣り合う国って緊張感が高いイメージだけども、インドとパキスタンもその例に漏れないのだという事を不勉強ながら今作で初めて知った。本作劇中では、例えば宗教の違いや過去にあった戦争、また「ドイツでも日本でも行けるけどパキスタンはビザが下りない」という旅行屋の台詞など「お隣だけど遠い国」という描写がいくつも出てくる。中でも、敬虔なヒンドゥー教徒である主人公パワンがイスラムのモスクに初めて入って行くときは、宗教色の弱い日本社会で暮らしている自分にもその緊張感が伝わるほど丁寧に描かれていた。

で、本作が素晴らしいのは上記したようなシリアスな部分はきっちりと真正面から丁寧に入れ込みながらも、軽快な展開とわかりやすい人情話、そして強引でダイナミックな音楽劇シーンの多用により、全体の感触としてはあくまで気楽に楽しめるエンターテイメントとしてきっちり成立しているところ。これがもっとシリアス且つリアル志向なお話だとなかなか重たくなってしまって、どうしても観る人も減ってしまうだろうけど、古くからある「少女とおっさんのロードムービー」分かりやすい王道の形式を踏襲しつつ、印パ関係とそれに翻弄される市井の人々というところが本作をみれば自然に理解できるような作りになっていて、凄くよく出来ている。

パワンが恋人一家と暮らしている(彼女の実家で同棲しているようなあの関係も日本人からするとなかなか想像が難しい)街の風情や、それと対照的なパキスタンに入ってからの荒涼とした雰囲気、そしてシャーヒダーの故郷である山岳地帯へ向かっていくときの自然の美しさなんかも尺が長いロードムービーだけあってたっぷり楽しめる。そしてとにかくシャーヒダー。どこにいて何をしていても可愛さ無双で、また喋れないという設定も陰のある魅力に寄与していて、全編にわたって天使みたいな存在感が凄かった。ついでに愚直なまでに正直な主人公のおじさんパワンもでっかい図体ながら歌って踊って、時に殴られたりもしながら必死にシャーヒダーを送り届けようとする姿が健気で次第に可愛く見えてくる。ウィキ観たら当時50歳だそうだけど、色んな意味でとてもそうは見えない。

粗筋だけ聞くと大王道で今更感漂うのだけれど、実際観てみると驚くほど予定調和な大枠と細部の緻密さが独特のバランスで混ざり合う、インド映画界の懐深さを思わせる傑作。そしてこの殺伐とした現代社会、こんなにもはっきりとしたメッセージを含んだ映画が製作され、しかも大ヒットしたという事実自体もとても有り難いことである。これも全てはハヌマーン様のご加護であろう。

三月のライオン

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矢崎仁司監督 日本 1992 ☆☆☆☆

スタッフ五人くらいで撮ったというどの付くインディーズ映画。どの場面も映像が美しくて、特にヒロイン・アイスの魅力がやばい。脚本がどうのという作品でもなく、八割方彼女の魅力と絵面で成立しているような映画だけど、自分はやられました。

いつもアイスを食べている少女アイスは兄のハルオを愛している。ある時ハルオが記憶喪失になったのをいいことにアイスは自分を恋人と偽り、同棲を始める。

全編に溢れる、むせ返るような90年代の匂い!この行き場のない退屈と、善悪の消失した地平で白痴のように無垢なヒロイン。そしてそれをただ見ているだけの男。岩井俊二庵野秀明もやや赤面するであろうこの懐かしい終末感覚をここまで正面からぶつけられたのは映画に限らずとも随分久しぶりだったが、おかげで初見なのに見ている間ずっと懐かしさを感じていた。

この手の作品見るたびになんだかんだ、中学生の頃の自分が見出したあの気怠い退廃に結局今も自分は憧れてしまうのかと切ないような恥ずかしいような気持ちになるが、何しろあの当時の文系野郎どもはみんな綾波レイに恋をしていたのだから、僕が本作のアイスにどうしようもなく魅せられてしまうのもまた全くしょうがない話である。と言わせて欲しい。

そういえば本作のアイスの部屋も綾波と同じく無機質な団地の一室で、且つ部屋にはずっと工事の轟音が響いているが、あれは本作からとったアイディアなのだろうか。

終始淡々としているし物語もあってないようなものなので面白い映画を見たい人にはとてもお勧めできないが、90年代的なアンニュイな破滅への適正が有る、あるいはむしろ物語なんて薄味希望、映画は退屈で耽美上等!というような方にはマスト。

パッケージにもなっているアイスを咥えているアイスのシーンを筆頭として、ほかにも絵になる場面がやたら多い映画で、またあの頃の色んな映画、漫画、小説によく似ているけれども絶妙にどれとも違う独特の中毒性もある。まさに「映像作品」といった一作。

これはブルーレイで再発してくんないかなー。

忘れられた人々

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ルイス・ブニュエル監督 メキシコ 1950 ☆☆☆☆

メキシコの名匠ルイス・ブニュエルを初めて見る。有名な「アンダルシアの犬」「皆殺しの天使」なんかの作品概要だけは知っていたのでシュールな作風のイメージだったが、本作は別段そういったところのない、きわめて現実的な、むしろ現実的過ぎるほどに厳しい社会派映画だった。
不良少年達のボス格でありモデルの様にルックス抜群のハイボがある日、少年院を脱走して街に戻ってくる。仲間の一人であるペドロは彼に誘われ早速、盲いた老芸人を共に襲ったりする。やがてハイボは自身を少年院にぶち込んだ裏切り者だと思われるジュリアンを呼び出し滅多打ちにし、しかしやり過ぎて殺してしまう。それを見ていたペドロは人を呼ぼうと言うが、事態を隠蔽したいハイボの口車に乗せられ、一蓮托生の共犯者として金を受け取ってしまう。そしてペドロを巡る状況はここから急速に悪化していくのだった、、、
「弱い者たちが夕暮れ~、さらに弱い者をたたく~」という歌詞をまさに地でいくお話。筋だけみれば相当に無残な内容で、要はろくでもないクズ不良にいいように利用され、巻き込まれ堕ちていく純朴な少年の悲劇なのだけど、このような悲劇の前提にはそもそも負のループを生み出し続ける社会の構造があるのだという事をこの映画は強く示し、単純にハイボ一人に責任をかぶせてはい終了という安易さを許さない。むしろ、あの切って捨てたのかのように呆気なく終わるバッサリ感があまりにも印象的なラストシーンを見た後では、良心的な観客ほどなんとなく自分が責められているような、そんなばつの悪い思いを抱くのではないだろうか。そういえば本作は冒頭で「結構冷徹に現実を描いているけどよろしく」みたいな注釈が入っていたがそのとおりに冷徹で、また意地悪な映画であると思う。
ただテーマはヘヴィーなもののテンポよくサクサクと軽快に進むうえ、画面には終始、悲壮感やしんどさよりもメキシコの下町の猥雑な活気や、クラシック・ムービーに漂いがちな独特の画面の品の良さみたいなものが前面に出ていることもあって特に構えずに見ていられる。70年も前の作品が現代でも特に違和感なく見られるという事に驚愕と眩暈の両方を感じながら、そしてでも結局はラストシーンのバッサリ且つガツンとした一瞬の衝撃~finに全てが持って行かれるという、そんな作品。